短編小説 柊の日
「湖都松江」 第12号掲載 平成18年9月
三成を過ぎて横田の町に入った。斐伊川沿いに、車を止める。 鳥髪の峰とも呼ばれる船通山が、遠くに霞んでいた。 奥出雲は半月もすれば冬が来て、春まで雪に埋もれる。 「もう、雪待月なんだ」 山の中腹から山頂にかけて、山毛欅の原生林が広がっている。紅葉は、すでに終わりを告げていた。 十一月を普通には霜月という。 横田で生まれ育った亜紗美は、それよりも雪待月という言い方が好きであった。 秋の終わりを待ちかねたように、冬は急ぎ足でやってくる。松江辺りの平野部に雪が無いときでも、山深い仁多の里では数十センチは積もる。 その雪の中で、ひっそりと時を過ごす。子どもの頃から、冬はそうしたものだと思っていた。 「お父さんとお母さん、どう言うだろうな?」 降って湧いたような就職口の相談をするために、亜紗美は横田の実家に行くつもりで、車を走らせて来た。 雪の里から、宍道湖北岸にある長江という集落の兼業農家に嫁いで二十四年になる。横田の高校を出てから県庁に臨時職員として勤めていた時、同じ県職員の夫と縁があって一緒になった。 直ぐに長男が、続いて女の子が生まれた。 長男は松江の大学を卒業して市役所に勤め、長女は大田市の農業大学校に学んで二年目になる。 進学先を決める高校三年生の秋、「陰手刈りの仕事がしたい」と言ったのには驚いた。 出雲平野に点在する住宅の多くは、西と北側に黒松を植えて防風林にしている。その築地松を刈り込む職人を陰手刈りという。 「幾何学的な形の、屏風みたいな築地松が好きなの。それに、保存ってことも言われてるし……」 築地松が減り始めていることもあって、陰手刈りの後継者は少なくなっていた。 「男の仕事じゃないの?」 「そうとばかりも言えないわよ。それに、私、会社勤めみたいなのは好きじゃないから」 少し怒ったように言った娘の顔が、今でも記憶の中にある。 二人の子どもを産み、暫くして育児の手が離れた頃、近くにあった農協の支所に勤めたことがあった。 支所の半分は雑貨を置く店になっていて、商店などない集落では、日用品を求めるのに誰もが重宝していた。亜紗美は四年ばかりだが、その売店をまかされたことがある。 いまでは、車で数分の所にスーパーができ、そこに客が流れて売店は閉鎖になってしまった。 注 ……一行空き…… 慶長十六年に堀尾吉晴が五年の歳月をかけて造り上げた松江城と宍道湖を中心にして、平成十九年から五年間の松江開府四百年祭が計画されていた。 宍道湖畔にある千鳥町の松江しんじ湖温泉≠ナは観光客を当て込んで、部屋の改装や従業員を増やす旅館もあった。 そのなかの一つ、湖水亭≠ゥらフロントを手伝って欲しいと、亜紗美は頼まれている。 誰に聞いたのかは知らないが、以前に勤めた農協の売店で、かなりな実績を上げたからというのが理由だった。 どうしよう――と、亜紗美は思った。 義父母は既に亡くなり、兼業農家といっても、家族で食べる程度のことしかやっていない。 夫は好きなようにしたらと言う。だが、もうひとつ踏ん切りがつかない。 「あら、いらっしゃい。久し振りだったね」 四輪駆動の白い軽自動車を庭に乗り入れると、音を聞きつけた母が出て来た。 「こんにちは……。お父さんは?」 「ちょっと山へ炭を見に行ったよ。すぐに帰るから」 「そう――。あら、柊のいい匂い」 「今年もそんな季節になったわ。お父さんと一緒に大事にしている柊だからね」 柊の白い花が、庭の片隅に隠れるように揺れていた。 横田町の中心地から三キロばかり南に実家がある。 町中よりも少し標高があるせいか、柊は咲くのが早い。いつから植えられていたのか分からないが、子どもの頃、花が咲くと冬が来るのだと教えられ、それ以来好きになったのだ。 「柊の花言葉……知ってるかい?」 「えっ?」 亜紗美は思わず母の顔を見詰めた。思いがけない言葉が、母の口から出たからだ。「花言葉……」 化粧もろくにしたこともない母は、毎日のように田圃や畑に出ているし、父はといえば、船通山麓の大呂にある日刀保鑪で使う炭を焼いている。 一に砂鉄、二に木山、三に元釜土と言われるほどに、鑪では木炭が砂鉄に次ぐ重要な材料である。砂鉄が良くても炭が悪ければ鉄は涌かず、砂鉄が多少悪くても炭が良ければ鉄が涌くと言われていた。今では、炭焼きの仕事が少なくなったとはいえ、父は若い時からその仕事を生き甲斐にしていた。 花言葉などという少女趣味にも近い言葉が、泥にまみれて働いている母から出るとは考えもしなかった。もちろん、父からも、その言葉を聞いたことがない。 「どうしたの? お母さん。花言葉なんて、似合わないわ」 「そんなことはないよ。今でこそ、おばあちゃんだけど、昔は……お父さんと」 母は笑った。 「それはいいけど、お前はさっき、こんにちは――って言っただろ?」 「それがどうしたの?」 「柊の花言葉なんよ」 「えっ?」 また驚かされた。 母は頷き、いらっしゃいとか、こんにちはという歓迎の意味が柊にはあるんだよ、と言った。 口を濁した母には、父との間で柊にまつわる何かがあったのかもしれないと亜紗美は思った。 父も母も同じ横田で、小学校から高校まで同級生だった。来年の春が来ると七十になる。 亜紗美は、柊の固い葉と棘を指でなぞってみた。 「痛いってことをひいらぐ≠チて言うわ。それがひいらぎ≠ノなったって聞いているよ」 柊の香りが、高くなったような気がした。金木犀のような匂いだが、それよりもすっきりとした感じだ。 母の匂いかもしれないと思った。 「柊の木は古くなると、刺がなくなって葉も丸くなるらしいよ」 「角が取れるってことかなあ。お母さんみたいに……」 「何言ってるの。でも、そうだね、もう古稀が近いからね」 母は首を傾げて、柊の花を見ていた。 「古稀かあ……」 呟いた途端に、亜紗美は決めていた。旅館に勤めよう――と。 高校を卒業したら松江で就職したいと言ったとき、父はそうでもなかったが、母は反対した。独り娘だったからだ。 「松江に出たら、戻って来ないでしょう」 「ううん、大丈夫。四年か五年だけ勤めさせて。そしたら必ず横田に帰る……」 「亜紗ちゃんが、この家を継いでくれなきゃ絶えてしまうからね」 高校三年生の冬だった。まだ国鉄と呼ばれていたJR松江駅が高架になり、駅の中にショッピングセンターが計画されていることも聞いていた。 奥出雲の高校生にとって、松江は大都会だった。一度だけでいいから、そんな街で暮らしてみたいと思ったのだ。 だが、母の思うようにはならなかった。松江で結婚してから、ずっとそのことが気になっている。 旅館へ勤めたら、両親を招待しよう――そう思った。 里帰りをするたびに、笑顔で「いらっしゃい。よく来たね」と迎えてくれた父と母を、今度は私が旅館のフロントで同じ言葉を言うのだ。 「お母さん、早く中に入ろう」 「もうお昼だもんね。何もないけど、一緒に食べようかね」 台所に入ると、母は手早く食事の用意を始めた。亜紗美も手伝う。 「お父さんも仕事から、帰ってくるんでしょ?」 「ああ、もうそろそろだね」 母は、壁に掛かっている古びた振り子時計を眺めた。 「もう齢だ、なんて言ってなさるけどね。それでもまだまだ元気だよ」 その父に、もう一つ言っておきたいことがある。 バイクのけたたましい音がした。 「車があったんで、亜紗美が来てると思ったら案の定だった」 大きな声と一緒に、父が帰って来た。 「お昼ができてますよ」 「亜紗美が手伝ってくれたか。そりゃよかった。お母さんも、ここんところ腰が痛いなんて言うから……」 「まだ捨てたもんじゃありませんよ」 母は、わざとらしく両手で腰を叩いてみせた。 笑いながらのやり取りの中から、広い家で老夫婦が助け合って暮らしている様子が見えるようだった。つっと鼻の奥が熱くなった。慌てて目をそらす。 「そうだ。お父さん、お土産あるよ」 松江で造られた純米大吟醸酒を一本買ってきた。 「少しずつ、頂きなさいよ」 病気はしなさらんけどね、最近、お酒が弱くなってしまって――と母が付け加えた。 「お父さん……」 酒瓶のラベルを眺めていた父が、顔を上げた。 「私ね、来月から松江の旅館に勤めることになったの」 「ほう、それはまたどうして」 就職をどうしようかと、相談するつもりで来たのだが、亜紗美はもう勤めることに決めたのだ。 二人を招待しようと考えついたことが、後押しした。 農協に勤めはしたものの、もう何年も前である。お客を相手にすることは同じでも、旅館のフロントと売店ではまるで別の仕事だ。うまく出来るかどうか分からないが、何とかなるだろう。 「子ども達も大きくなったし、最後の踏ん張りで仕事をしてみようと思うの」 旅館のフロント業務だから、難しいこともあるかもしれないけれど、やってみたいのと亜紗美は言った。 「思う通りにしたらいい」 結婚する時も、父はそう言った。 「私も、いいと思うわ」 母も頷いた。 「ありがとう。それとね――言っておかなきゃいけないことがあるの」 一週間前だった。娘と二人で夕食の用意をしていた時、不意に娘が言ったのだ。 「私……おじいちゃんの所に行ってもいい?」 「冬休みになったら、スキーでもしたらいいわよ」 違うの――いつになくきつい言葉が返ってきた。 「じゃあ、何をしに?」 「お母さんの代わりに……」 何のことを言っているのか、分からなかった。 「農業をするの」 まさかと思った。 「私……おじいちゃん達と暮らすことに決めたわ」 農業大学校に通うようになってから、そう思うようになった。時々、横田に行って話をしていると、二人の寂しさが分かるし、それに農業が好きだからと娘は言った。 「陰手刈りっていうか、築地松の仕事がしたいって言ってたじゃないの」 「どっちも出来るわ。同じ自然相手じゃないの」 顔を見ていると、ただの思い付きではないようだった。子どもだと思っていたのに、いつの間に大きくなったのかと、亜紗美は喜びが、じわりと胸の奥で湧き上がるのを感じた。 ……一行空き…… 千鳥町の湖水亭≠ヘ、客室数十五のこぢんまりとした旅館で、どの部屋からも宍道湖が見えた。 亜紗美が勤め始めてから二か月が経っている。家族的な雰囲気もあって、フロントの仕事にもすぐに慣れた。 年末から年始は、毎日のように満室が続いていたが、二月になると少しは暇になる。 「松江の旅館でどうかと思うけど、二人で一泊しない?」 亜紗美は、横田の実家に電話を掛けた。考えていた招待である。 兄弟のない一人娘でありながら、家を飛び出してしまったことへの、せめてもの償いだ。 最高の部屋を取って、私が迎えるのだ。 「えっ? 呼んでくれるの?」 受話器から聞こえる母の驚きの声が、ひときわ大きく耳に届いた。 「ずっと考えていたの。一番いい部屋を取るから」 両親が結婚したのは、昭和三十四年だった。冷蔵庫、洗濯機、白黒だったテレビが、三種の神器の一つとしてもてはやされた時代である。テレビは、公務員初任給与の何か月分かの値段であった。 横田の旅館に親戚が集まり、ささやかな祝宴を開いただけの結婚式だったという。もちろん、新婚旅行には出掛けていない。母は、その翌日から、田圃や畑の仕事があり、父は炭焼きをしなければならなかったからでもある。 「新婚旅行の気分で来てよ」 「七十歳の新婚さんって、なんか変だよねえ」 そう言って笑った母の、鼻をすする音が聞こえた。 二月三日、節分の日になった。 その日、朝から亜紗美は落ち着かなかった。 西と南に窓のある三階の部屋が予約してある。 夏から秋にかけては、宍道湖の夕陽が手に取るように見える特別室だ。料理も最高のものを準備してもらうよう、厨房の係に言っておいた。 「値段以上のものにしておくよ」 料理長の言った言葉が嬉しかった。 節分荒れという言葉がある。それが場違いのように朝から柔らかな冬の陽は、湖水亭≠包み込んでいた。 午後になると、落ち着かない気持ちは緊張感に変わった。 フロントからは、入り口が真っ直ぐに見通せる。三十分ごとに時計を見て、入り口に目を遣った。短針は、油が切れたかのように進まない。 時計の針がL字形になり、午後三時を知らせた。 ちょうどその時、黒塗りのタクシーが停まり、二人連れが降りた。 待ち受けていた女性の従業員が、格子戸を開けた。 錆朱色の道行を着た母と薄茶色の背広の父はよく似合っている。 「やあ……」 照れた顔の父が、片手を挙げた。 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」 亜紗美は、胸にせり上がる思いを押さえて頭を下げた。 よかった――亜紗美は、父に聞こえないように呟いた。 「いい部屋だねえ」 母は控えの間で立ち止まり、ため息をついた。 六畳に続いて、十畳の部屋がある。大きなガラス窓一面に、冬の宍道湖が広がっている。 「こんなところから宍道湖を眺めるのは、わしは初めてだ」 「ここは最高の部屋なのよ」 「高いんでしょうね」 母が心配そうな顔をした。 「そんなことはいいの。私は、この旅館のフロント係ですから、どうにでもなります」 他愛のない話は、和やかな空気を運んでくる。 「お父さんとお母さんに来てもらって、本当によかった」 亜紗美は呟いた。 「おや? 柊……」 床の間に活けられた柊に、母が気付いた。 「ええ、出入りの花屋さんに、頼んだの」 節分には、鰯の頭を柊の小枝に刺して戸口に飾る。悪疫退散のために炒り豆を撒き、福を招くという風習が出雲地方にはある。 小魚を枝に刺した柊を、床の間に置くわけにはいかない。白い花の咲いている木の枝だけにした。 「ああ、いつか亜紗ちゃんと話した、あれね」 母は覚えていてくれた。 「ええ、歓迎という意味よ。それにもう一つ、柊には、あなたを守るっていう花言葉もあるんだって。花屋さんが言ってたわ」 潤んだ母の目が頷いている。 亜紗美は、わざと作ったような声を出した。 「えっと、それではお客様。お食事は何時にお持ちしましょうか?」 縁側に立ち、宍道湖を眺めていた父が言った。 「おまかせします。それと、松江の地酒を三本付けて……」 微かに声が震えていた。 「三本……いけません。お父さん、多いですよ」 母が、慌てて手を振った。 「いえ、いえ。新婚さんですから、しっかりお召し上がりください」 控えの間に座り、両手を突いて言った。顔を上げることができなかった。 亜紗美は、そのまま向きを変えて部屋を出た。 |